円城塔『文字渦』新潮社
「昔、文字は本当に生きていたのじゃないかと思わないかい」(「梅枝」p.104)
この本には文字をテーマにした短編が12編、収められています。どれを読んでも私には理解がむずかしいものでした。それは文字が他の何かと入れ替わっているらしいものの、その設定での文字(漢字)を受け入れられるだけの能力がなかったためだと思います。例えば、文字が海や島だとされる「緑字」。蟋蟀を戦わせる代わりに文字を戦わせているような「闘字」。殺人事件ならぬ殺字事件が起こる「幻字」。
そんな中でもお話に登場する考え方で気になるものが何点かありました。
「一つの文字を消し去るには、必ずしもその文字を覆滅する必要はなく、出鱈目な資料を大量に作成するという方法もある。」(「文字渦」p.25)
「未来にそれが起きた時点で、遥か昔の出来事が生成されることはありふれている。」(「緑字」p.53)
「定家はかなりテキストを書き換えたじゃないか。しかもその定家本しか後代に伝わらなかったりした。方針さえきちんとしていれば改変は許される」(「梅枝」p.98)
「白黒を反転するにはまず全てを灰色に塗り込めてしまうのが良手であって、」(「新字」p.111)
「書きそこないと見えたものが、実は発明であったりする。」(「天書」p.213)
それまでの正統と見えたものと異なるものが出たとして、例えば後世に生き残ったのが誤りの方だったなら、それが正しいものだとされてしまう。突然変異、自然淘汰、適者生存を文字も通過しているようで確かに生きているように思えてきます。
「レイアウトにより、デザインにより、文字の伝える意味内容は異なってくる。」(「梅枝」p.87)
早坂吝『探偵AIのリアル・ディープラーニング』新潮文庫nex
「人に相似しているが、人ならざるもの。それが彼女なのだろうか。それが人工知能なのだろうか。」(p.80)
父親を殺された主人公は、彼の形見である人工知能とともに犯罪を捜査するようになります。その過程でシンギュラリティを是とし、その到来の前に人類世界を転覆してしまおうとするテロ集団と対決するようになります。
「フレーム問題はディープラーニングの登場によって解決するかもしれない。」(「フレーム問題」p.50)
この本は短編連作となっており、各話数では人工知能に関する問題がとりあげられます。
「《犯人》は無から有を生み出さないといけませんから、事物を正確にイメージする能力が必要になってくる。つまりフレーム問題よりシンボルグラウンディング問題を起こしやすいんです。」(「シンボルグラウンディング問題」p.126)
そして主人公側のAIには対となる人工知能が存在しています。探偵AIの対なので《犯人》です。
「お前の存在意義は以相を対戦学習で成長させることだけにある」(p.69)
私はこの対決や事件の解決方法を読みながら、これが人工知能らしいのかどうか分からないと思っていました。
「心配しなくても人工知能の心はこんなことで傷付くほど弱くないよ」(「中国語の部屋」p.329)
考えてみれば、何をもって人工知能らしい/らしくないを感じているのでしょうか。本文中で人工知能が行ったり考えたりしたことは、「人工知能が」と主語が分かっているから人工知能の行動や思考として受け入れています。でも、現実には人工知能ではなく人間である著者が書いているはずです。
作中最後の話数「中国語の部屋」では人工知能の同定をめぐりチューリングテストのようなゲームが行われます。全部、著者が書いたことだと感じながら読むことで「人工知能らしい/らしくない」とはどういうことなのだろうという疑問は深まります。
王城夕紀『青の数学』新潮文庫nex
「振り返るなと 立ち止まるなと 歩き続けても
この世に果てなどないと 本当はとっくに 気付いてたさ」
(柴田淳『それでも来た道』)
この本を読みながら私は柴田淳さんの歌を口ずさんでいました。それは約束から数学をずっとやり続けようとする主人公の姿が歌詞に重なってきたからかもしれません。
「誰もが、まるでどこかに辿り着けるように目を輝かせている」(p.15)
主人公は高校生の少年です。そして作中には、数学をやり続けられなかった大人たちも登場します。
「その先には何もないところを、自分は進んでいるのかもしれない。」(p.137)
自分の取り組んでいる数学の問題が解決不可能なものだったとしたら、自分は最盛期を無駄に費やしているだけなのではないか。そんな懐疑は足枷となり歩みを止めます。それは、私には想像もつかない世界のことだけれども。
「知りたいんです。数学の才能があるっていうのが、どういうことなのか」(p.75)
ちょうど私は『目の見えない人は世界をどう見ているのか』という本を読んだところでした。その本では、読者に目が見えない人に変身してどう認識しているのかを追体験させることが企図されていました。同じように数学ができる人が世界をどう見ているのかを知ってみたい。あるいは、数学者の世界認識と数学者の数学認識を混同しないなら、数学の才能がある人にとって数学がどう認識されているのかを知ってみたい。
主人公が数学は数字と論理でできていると諭される場面があります。数学がからきし駄目だった自分の学生時代を思うと、そんな風に数学のことを捉えられていれば、また違った付き合い方ができたのかもしれないと思います。
「その人になれないから、憧れなんだよ」(p.265)
私は数学が出来る人に憧れているのかもしれない。そして自分がそうはなれないことも知っている。
歩き続けても辿りつくべき果てがないこと。それに気付いているように感じているから、作中で数学に取り組む高校生たちのひたむきさを羨むとともに憧れを抱くのだと思います。