多和田葉子『地球にちりばめられて』講談社
「語学を勉強することで第二のアイデンティティが獲得できると思うと愉快でならない。」(p.140)
言語を問われるのは、アイデンティティを問われるのに等しい。
主人公は留学中に母国が消滅してしまった女性。母国が存在しなくなった人たちを集めたテレビ番組で言語学者の卵の目にとまります。
「わたしと同じ母語を話す人間になかなか会えない。」(p.20)
主人公は彼とともに「わたしと同じ母語を話す人間」を求めて旅に出ます。そうやって探し求めた「人間」の正体は示唆的でした。
「オリジナルが消滅した後は最上のコピーを捜す以外に方法はない」(p.141)
ある「人間」との出会いでは、ネイティブ・スピーカーという考え方が揺さぶられます。ネイティブが使う母語が真正のものなのか。ネイティブの方が非ネイティブよりも必ず語彙が広いのか。
「ところであなたが流暢にお話しになっているのは何語ですか」(p.10)
そんな風に考えると主人公が使っている言語の位置づけが気になってきます。主人公が使っているのは「何となくしゃべっているうちに何となくできてしまった通じる言葉」(p.38)です。この人工言語は「パンスカ」と作中、呼ばれています。では、本物の「パンスカ」とは何なのか。
正しさの判断基準が「大勢の使っている言い方に忠実」(p.210)かどうかなら、「パンスカ」はその「大勢」を持たない。主人公しか使わない言葉です。でも、大勢に通じてはいる。虚焦点としての真正「パンスカ」すら危うい中で通用していく言葉。それが根ざすのはアイデンティティと呼べるような固い基盤を持たない流動的な何かです。
「あなたは何を故郷と呼ぶのですか。」(p.61)
また、別の「わたしと同じ母語を話す人間」との出会いでは、その「人間」の「話す」言語が印象的です。普通に考えれば「同じ母語を話す人間」とは母語を通して会話が成立します。主人公も久しぶりに母語で話すことができるはずでした。でも、彼の母語がそうであることでネイティブ同士であってもコミュニケーションがとれないという事態を私は想定していなかった。主人公たちと共に旅をした果てに待っていたものに揺さぶられます。