この本を読もうと思ったのは・・・

読んだ本の感想です。

王城夕紀『青の数学2』新潮文庫nex

 「私に、今から開く問題が解けますか。」(p.134)

 前作に引き続き数学の道を歩みつづける主人公ですが、スランプに落ち込みます。数学の決闘でも勝てなくなってしまいます。そんな中、復調の兆しを見せはじめた頃、上記のように祈っているように見えるシーンがありました。その箇所を読んだ時、私の頭に浮かんでいたのはKOKIAの「祈りにも似た美しい世界」という歌でした。

 「全力を出しても勝てないと悟って、なおその人の前に立たなければならないのは、しんどい」(p.29)

 数学で思うように点数を取れなかったことを思い出します。全力で勉強しても解けないのに、なお解きつづけなければいけないのはしんどい。単純に才能が無いのだと思ってしまいます。でも、

 「問いを前にして立ち続けていられることだな」(p.242)

数学の才能が作中述べられていた通りなら、

 「数学的なことは数学的なことであり、それ以上の意味や含意を見出そうとするのは数学者の態度とは言えない」(p.189)

邪道であったとしても、何事においてもそれとともに在りつづけられることが才能がある、ということを意味するのかもしれません。

 そうやって祈るように対峙しつづける静謐の中に道を極めるということはあるのだろうなと思います。

 

多和田葉子『地球にちりばめられて』講談社

 「語学を勉強することで第二のアイデンティティが獲得できると思うと愉快でならない。」(p.140)

 言語を問われるのは、アイデンティティを問われるのに等しい。

 主人公は留学中に母国が消滅してしまった女性。母国が存在しなくなった人たちを集めたテレビ番組で言語学者の卵の目にとまります。

 「わたしと同じ母語を話す人間になかなか会えない。」(p.20)

 主人公は彼とともに「わたしと同じ母語を話す人間」を求めて旅に出ます。そうやって探し求めた「人間」の正体は示唆的でした。

 「オリジナルが消滅した後は最上のコピーを捜す以外に方法はない」(p.141)

 ある「人間」との出会いでは、ネイティブ・スピーカーという考え方が揺さぶられます。ネイティブが使う母語が真正のものなのか。ネイティブの方が非ネイティブよりも必ず語彙が広いのか。

 「ところであなたが流暢にお話しになっているのは何語ですか」(p.10)

 そんな風に考えると主人公が使っている言語の位置づけが気になってきます。主人公が使っているのは「何となくしゃべっているうちに何となくできてしまった通じる言葉」(p.38)です。この人工言語は「パンスカ」と作中、呼ばれています。では、本物の「パンスカ」とは何なのか。

 正しさの判断基準が「大勢の使っている言い方に忠実」(p.210)かどうかなら、「パンスカ」はその「大勢」を持たない。主人公しか使わない言葉です。でも、大勢に通じてはいる。虚焦点としての真正「パンスカ」すら危うい中で通用していく言葉。それが根ざすのはアイデンティティと呼べるような固い基盤を持たない流動的な何かです。

 「あなたは何を故郷と呼ぶのですか。」(p.61)

 また、別の「わたしと同じ母語を話す人間」との出会いでは、その「人間」の「話す」言語が印象的です。普通に考えれば「同じ母語を話す人間」とは母語を通して会話が成立します。主人公も久しぶりに母語で話すことができるはずでした。でも、彼の母語がそうであることでネイティブ同士であってもコミュニケーションがとれないという事態を私は想定していなかった。主人公たちと共に旅をした果てに待っていたものに揺さぶられます。

保坂和志『ハレルヤ』新潮社

 「与えられた一つのものだけが必然なのではない、出来事は多くの可能性の一つとして偶然である、出来事は全体の一部、立体の一部なのだ。」(「こことよそ」p.115)

 この本を読みながら私は現在と過去の往還のようなことを考えさせられていました。

 表題作「ハレルヤ」に飼い猫の泣き声の意味が変化していった過程を振り返っている箇所があります。そこに表明されている時間観は過去があって現在があるという因果的な線のようなものではありませんでした。

 「過去の出来事は現在の私の心、というより態度によってそのつど意味、というのでなく様相、発色が変わる。」(「ハレルヤ」p.18)

 「未来を考えた途端に未来は生まれるが、それは姿を変えた現在と過去でしかない。」(「ハレルヤ」p.19)

 今現在の自分によって過去の姿が変わる、というのは読書についてもいえるかもしれない。「ハレルヤ」に書かれているのは飼い猫との別れまでの諸々とその過程において著者が感じ考えたことです。そのメインであるだろう猫との関係に私はあまり関心がないようで正直に言って後ろめたさを感じます。ずっと後になって再読したなら、今はそれほど注意が向かなかった箇所が気になるのかもしれません。

 「三十八年後に読む自分が最も反応する箇所に当時の自分がまったく反応しないことがあるだろうか。」(「こことよそ」p.84)

 こんな風に考えてしまうのは、著者の言うように本を読めていないからであって、後ろめたさが増していきます。

 「これをどういう風に感想文にすればいいか?を考えず、ただ読めばいい。」(「あとがき」p.171)